ジル・ドゥルーズ/サミュエル・ベケット『消尽したもの』

 

消尽したもの

消尽したもの

 

 

ドゥルーズは結構長く読んでいて、自分の中ではいまだに「レトリックで適当言ってるだけじゃねえの」と「いや鋭いことを言っている気がする」の両方を行ったり来たりしているような、そんな感じの人です。

そんな感じの人の中でここ数年よく読んでいるのが、このベケット論です。訳者解説含めても100ページちょいで読みやすい。(晩年の体力なくなって不親切なドゥルーズが書いているので、彼の哲学知らん人には逆に読みにくいかも疑惑もありますが。)

 

ベケットの本としても面白いと思います。テレビ用のシナリオが4本収録されています。

まずなんといってもベケットなのに短い。いずれも十数ページくらい。しかも詩とは違ってそれなりに物語的な筋が存在している(ベケットにしてはですが)。モロイとか読む労力の千分の一くらいの根気で済みます。専門の人には怒られそうですが。

そしてどれもその短さにも関わらず、ベケット文学の世界観も十全に表現されています。特に「雲のように」「夜と夢」は詩的で美しい。

 

消尽(エピュイゼ)

ベケットを論ずるにあたり、ドゥルーズはまず、消尽(エピュイゼ)という概念を提出します。この「Épuisé」という単語は「井戸の水を尽きさせる」を語源とし、「~を使い果たす」 みたいな意味、とのこと。

 

だいたいの哲学の議論がそうであるように、ドゥルーズはまず対立概念を立てることでこの概念を定義します。消尽に対立するもの、それは疲労です。

消尽したもの、それは疲労したものよりずっと遠くにいる。

疲労したものは、ただ実現ということを尽くしたしまったのにすぎないが、一方、消尽したものは可能なことのすべてを尽くしてしまう。

常識的な話として、人間は疲れます。

ドゥルーズによれば、人が疲れるのは、何かを成し遂げ、可能性を実現していくからです。「外出するために靴を履く。家にいるためにスリッパを履く」。

ある目的があり、その目的のために計画を立て、手段を選択する。そして人は体力を使い、疲労します。特に何も不思議はない、普通の人の普通の生活です。

 

しかし、消尽はこれと異なっています。ドゥルーズによると、消尽とは可能性のすべてを汲み尽くしてしまうことです。

消尽することは、これとまったく別である。あらゆる選択の順序や目的の組織化、あらゆる意味作用を放棄するという条件で、われわれは一つの状況の変数の総体を組み合わせる。それはもはや外出するためでも、家にとどまるためでもなく、昼も夜も何の役にも経たない。何かを成し遂げはしても、もはや何も実現しない。靴をはいて家の中におり、スリッパで外に出る。だからといって無差別や、いわゆる矛盾概念の統合などという代物に陥るわけではない。しかも受け身ではなく活発に動くのだが、それは何のためでもない。われわれは何かに疲労したのだが、消尽したのは何のせいでもないのだ。

ベケットの世界の住人たちはみな、疲労の領域を超えておのれの可能性を使い果たしてしまった人々です。彼らはもはや何も実現することがありません。様々な行動を起こしたとしても、それは目的を持たず、目標を実現することはありません。

ドゥルーズは、ベケットのテキストの中で、可能性を消尽する表現の1つに、『モロイ』の有名な一節を引用しています。「真夜中だった。雨が窓ガラスを打っている。真夜中ではなかった。雨は降っていなかった。」

 

ドゥルーズはまた、を「起源的なもの、すなわちあらゆる可能性の総体」と定義しています(たぶんスピノザの神が参照されているんだと思います)。

よく言われるように、ベケットの世界には神がいません。いつまで待ってもゴドー=Godは来ることがありません。先の定義に当てはめると、それはすなわち、世界から可能性が枯渇している事態を意味します。

このためにベケットの世界の人びとは、不条理な行動を繰り返します。世界から神=可能性が消え去っている以上、意味や目的に適った合理的な行動が取られることはないためです。

 

不眠

消尽にはまた、不眠が属しています。

常識的な話として、疲れた人間は寝ます。彼は布団に入って寝て翌朝また起きることで再び体力を回復し、可能性の世界へ戻っていくでしょう。

しかし、消尽したものは眠ることがありません。なぜなら、疲労の彼方で可能性そのものと訣別してしまった彼は、もはや可能性を回復することはないからです。

ドゥルーズは文中でごく短くですが、不眠の夜のうちにハイデガー的な存在の開かれの契機を見出したモーリス・ブランショに触れています。「眠りは夜を裏切る(『文学空間』)」。

 

「‥‥‥雲のように‥‥‥」「夜と夢」

後期のベケット作品がそうであるように、この2作品も具体的な地名や時代も設定されておらず、そもそも現世の出来事なのか、登場人物たちが生きているのが死んでいるのかすらよく把握できません。

「‥‥‥雲のように‥‥‥」

毎夜祈りを捧げる男が主人公です。彼は日が昇ると外に出て通りを歩き回り、日が落ちると家に帰り、夜通し祈りを捧げ、日が昇ると再び外に出る、と自ら語ります。

彼は夜を徹して自らの小さな聖域で祈りを捧げ、ある女性の現れを待ち続けます。

映像では過ぎ去る女性の顔が映され、音声では極限まで幽かなイメージを暗示するイェイツの詩が引用されます。詩的で美しい小品。

「夜と夢」

夕暮れの光が差し込む小部屋で、テーブルに座っている男が夢を見る話。話というほどの筋はないですが。

ドゥルーズは「夜と夢」の主人公を指し、彼は不眠症だ、と言います。

人はしばしば、白昼夢や覚めたまま見る夢と、睡眠中の夢を区別することだけで満足する。しかしそれは疲労と休息の問題にすぎない。こうして人は第三のおそらく最も重要な状態をとらえそこなうのだ。それは不眠(これだけが夜にふさわしい)と、不眠の夢(それは消尽にかかわる)である。消尽したもの、それは眼を見開くものである。われわれは眠りながら夢をみていたが、いまは不眠のかたわらで夢をみる。

実際のシナリオを読むとこの解釈はちょっとどうかな、と思うところもあるんですが、ドゥルーズがこの本に収録した4つのシナリオの最後に位置づけているのがこの作品です。

 

夢の中でもテーブルに座って夢を見ている男は、顔の見えない天上から2本の両手を差し伸べられます。2本の手は盃で男の喉を潤し、額の汗を拭う。

彼もまた顔を上げ、みずからの腕を上に伸ばすと、その右手に天上からの手もそっと重ねられる。やがて夢が終わる。

夢の前後に、シューベルトの歌曲「夜と夢」の末尾が歌われます。「甘い夢よ戻れ」。

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