ゴールデンレトリバー撫でたい

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ガルラジにおける視点、時間、超越性について

うおお第一シーズンもそろそろ終わりだしそろそろ考察っぽいのを書くぞ!!!と思って書き始めたら異常な長さ(2万字あります)になったけどなんとか最終回ギリギリに間に合いました。

Twitterやブログの有識者各位から色々な知見を頂きました。ありがとうございます。

ガルラジ怪文書まとめ - 除雪日記

 

毎度の手前味噌な紹介記事はこちら
livedoor.hatenadiary.com

 

 

#1 虚構から届く電波 

1.1. 映像と音におけるパースペクティブ

1.1.1. フィクションの世界の音

 わたしは前々から考えていたことがあるんですが、それは何かと言うと、フィクションを構成する要素のうち、音についてはフィクションの世界での音と同一の音が現実に知覚できる音として鳴っていると想定することできるのではないかということです。

  回りくどい言い方になりましたが、僕がこれで何を想定しているかと言いますと、キャラソン、特に二次元アイドルの楽曲です。

 たぶん同じ趣味の人はなんとなく直感的に共感してもらえるんじゃないかと思うんですが、二次ドルの曲はなんというか、「フィクションの世界からそのまま持ち出されてきた」ような感じがします。特になんかの根拠があるわけではなく、感じがするだけです。

 これは前からなんかいい切り口見つかったら書こうと思ってて、そのまま眠らせててボケーとしてたんですけど、その間にガルラジが始まりました。その流れでなんとなくこれなんじゃないか?みたいな気がしてきたので、ようやく手をつけることにしました。

 

1.1.2. 映像には必ず視点が含まれる

 まずちょろっと補助線として映像のお話です。ある写真や映像には「映っている風景やもの」の他に「その風景を撮っているカメラの視点」、いわゆるパースペクティブが必ず含まれています。たとえば1つのりんごを撮る時、正面から撮る、上から撮る、離れて撮る、近くで撮る、というように、撮っている対象の他にその対象の「見え方」が含まれます。

 映像が2次元であり、撮影する世界が3次元である以上、ある物を撮影した映像には必ずその画面には映らない要素が発生します。具体的にわかりやすいのは以下の2つです。

①物の裏側

②四角いフレームの外

 なんらかの映像には、画面に映っている対象の他に、必ずその対象の見え方を選択した撮影者の視点が必ず含まれています。

 これは現実にモデルがある写真や絵ならまだしも、1から創造された架空の対象を描いたアニメやイラストの場合だとより話が混み合います。
 というのも、現実の物や風景を写した写真や映像ならまだ少なくとも過去にこの世界に存在したし、今もまだあるなら現地に行くこともできます。
 しかし、架空の対象の場合は、その定義上、我々が住んでいる3次元空間のこの世界で眼の前に直観的に現れ出ることは可能性としてありません。つまり、架空の対象は視覚的に現出する時、必ずカメラ位置に相当する視点をともなう必要があります。

 我々がアニメや映画を視聴する時、なんとなく外から俯瞰している視点で眺めている感じを受けるのは、だいたいの場合このカメラの視点を挟む必要があるからです。我々は「どこから」物語を見ているのかというと、この第三者的なカメラの目線です。
 この視点は、視聴者側からすると、テレビの画面や映画館のスクリーンにあたります。図解すると、現実の対象の見え方が「眼→対象」という関係なのに対し、虚構世界の対象は「眼→スクリーン→スクリーンの中の対象」という関係です。このスクリーンは四角く区切られていて、我々の身体に付いている眼のように自由に動かすことはできません。また、記号の表現である小説においても視点の問題は入ってきます。

 

1.1.3. 音にパースペクティブはない

 まず、音は物ではありません。いや、音は空気の振動だろう、という意見もあるでしょうがそれに踏み込むと果てしなく話が長くなるので脇に置いといてください。まじで長くなるから。

 音が物でないということはどういうことかというと、音には面がありません。よって、音には裏側もありません。人間は音を聴く時、3次元の物を知覚する時にそうであるように、音のある面を知覚しているわけではありません。

 雑に例示しますが、「ある音をぐるっと回り込んだらその音の裏側が聞こえる」は意味不明です。ある音がスピーカーから鳴っているとして、そのスピーカーの後ろに回ったり、遠くに離れたりしても音が聞こえにくくなるだけです。それは全体性を保ったまま減衰するような形を取ります
 この図式は、視覚における「同一の対象の違う見え方」と似ていますが、物の空間的な面の見え方とはやはりその性格においてなっています。おそらく、このある物の「面」の見え方(たとえばサイコロの1の面だけがこっちに見えている場合)に、音で対応するのは、一続きの音が途中で断ち切られるような場合だと重います。具体的に言えば4分間の楽曲をAメロとサビまで終わった2分くらいまで聴いて一時停止を押したような時です。

  それでは、音は映像のように俯瞰的な視点からではなく、虚構の世界からこっちの世界に直接持ち込めるのではないか?というのが最初に考えていたことでした。

 

1.1.4. 録音された音に保存される距離感

 先ほど、映像には対象以外にもカメラの視点が保存されていると書きましたが、そのカメラの位置から読み取れる情報の1つが、撮影している対象とカメラの間の距離です。これは単純な話で、近くで見れば大きく見えるし、遠く離れれば小さく見えます。カメラの画角やズームとかも関わってくると思いますが、原則的には変わりません。

 さて、それでは音を録音した場合はどうでしょうか。カメラに相当するのはマイクです。「音が鳴っている場所とマイクとの距離」は録音された音には保存されているでしょうか。

 このあたりマジで知識なくてアホみたいで申し訳ないんですけど、めちゃくちゃ単純な図式にします。いまだに本題に入れてませんが、このエントリは最終的にガルラジの話をしたいので人間の声や楽器を想定します。ライン録音やシンセサイザーDTMは一旦脇に置いておきます。初音ミクさんもその脇に置かせてください。

 ある楽器から音が鳴っているとして、それを離れたところからマイクで録音するとします。近くでマイク立てればクリアに録音されるだろうし、遠ざかれば遠ざかるほど音量は小さくなり、そのうち何も聞こえなくなるでしょう。というわけで、音を「直接」録音するには、マイクは近ければ近いほどいいはずです。

 しかし、カメラと同様、音の発生源とマイクの距離をゼロにすることはできません。空間のある1点を2つ物が同時に占めることは不可能です。というわけで、音が出ている場所と、音を録音している場所には必ず距離が開きます。

 というか常識的に考えても、スマホで録音した音だったり、ライブレコーディングの音楽の演奏なんかは、はっきり音と録音している地点との距離を感じることが多いと思います。

 よって、「現実に目の前で鳴っているある音」と、「ある音を録音した音源を再生した音」には、絶対に違いがあります。もちろん普通きちんとレコーディングした場合は別に距離感とか感じることはないと思います。もしレコーディングエンジニアの方が読んでたらすいません…。

 よって、マイクで録音された音源は、常にある距離で録音された音です。人間の感覚で判別できるかどうかは別として、「ある距離を隔てた地点の音」であることは原理的に失くすことはできません。
 それは「ある物を生で見る」のと、「ある物を撮影した映像を見る」ことの違いと類比的です。

 そういうわけで、上に書いた通り「ガルラジが直接的っぽく感じるのは映像がカットされてて音だけのせいなんじゃないか」と思ってたんですが、違いますね。たぶん。言ってみれば空間で鳴っている音を「即自的に」録音することは無理です。もう一度言いますが普通に聴く分にはまず気にならないと思います。

 

1.2. ガルラジの音声と虚構から届く電波

1.2.1. ガルラジのブースにはマイクがある

 これ本当にしばらく考えてたんですが、ガルラジの場合は音源に距離が保存されていても何の問題もないことに気が付きました。

 まず、ガルラジの音はラジオです。そして、ラジオの収録場所はNEXCO中日本の各サービスエリアに設置された特設ラジオブースと指定されています。ということは、ガルラジのフィクション世界内には、実体を持ったマイクがあります

 この「フィクションの中に実体を持ったマイクがある」というのはかなり変な表現ですが、これは映画におけるカメラの視点と比較すればわかります。
 最初に言った通り、映像には必ずカメラに相当する視点があります。そして、映画における登場人物は絶対にカメラを意識しません。それがフィクションの映画である限り、自らが撮られているとはまったく気付いていないようにふるまいます。
 言ってみれば、通常のフィクションの世界におけるカメラは、登場人物からすれば、目に見えず手に触れられず、カメラマンはおろか機械ですらなく、何かの実体ですらなく、無色透明でふわふわと空中に浮かんでいるような存在です

 さっきも書いたように私たちが映画やアニメを見る時、窓から覗いているように感じるのはこれが原因です。

 これは、主体と世界の関係を眼と視野をモデルにして考えた多くの哲学者が、主体は世界の中の対象ではないと指摘したのと類比的です。例えば『論理哲学論考』命題5.6~。フィクションの世界の中の視点は身体を持ちません。

 当然ですが、現実の映画の撮影現場には、カメラがあり、カメラマンがいます。カメラという機械と、そのカメラを操作している生きたカメラマンは、フィクションの世界の外にちゃんといます。
 しかし、登場人物がカメラを意識する、たとえばカメラに向かって話しかけた場合、それは観客から見てスクリーンの向こう側から話しかけられているような状態になります。それは「メタ的」な表現と呼ばれるでしょう。

 しかし、ガルラジの場合は別です。ガルラジのラジオを収録しているマイクはその世界の中にあります。そのマイクはキャラクターにとってメタ的な存在ではなく、各パーソナリティの目に見えて手で触れるものです。そして、彼女たちの口と一定の距離を隔てたある位置で、彼女たちの声を録音しています。

 もしガルラジの音源に口とマイクとの距離が保存されているとしたら、それは本渡楓さんや長縄まりあさんとマイクとの距離であると同時に、二兎春花や手取川海瑠の口とマイクとの距離です。

 

1.2.2. 虚構の世界でレコーディングされた音

 僕は最初、映像と音、もしくは視覚と聴覚の違いが、ガルラジの実在感に繋がっていると思っていました。しかし違ったみたいです。虚構の世界内でレコーディングされた音なのが重要だったみたいです。

 そして、我々が聴取しているガルラジのラジオ番組は、フィクション世界内で放送されているラジオ番組と、知覚的な音として完全に一致しています

 ガルラジの何が「直接的」なのか、何が「実在っぽい」のか、という問題の解答の1つがこれだと思います。つまり、私たちは通常フィクションを鑑賞する時、なんらかの視点を介して、いわば「間接的な」眺め方をすることしかできません。
 しかし、「ガルラジのラジオ番組」は、フィクション世界内に存在するそのものです。最初に書いた「二次元アイドルの曲はフィクションの世界からそのまま持ち出されてきたような気がする」はこの事態を指します。

 ただ、この状況を逆に考えて「録音されたラジオ番組を第三者的な視点から鑑賞する」とはどういうことなのかはかなり微妙な意味合いになってきます。たぶんこれは視点というより、演出に関わってくる問題だと思います(後の方で書きます)。

 

1.2.3. 虚構のマイクと現実のスピーカー、そして電波

 そして、そのマイクによって録音されたラジオの音源は、そのままこっちの世界のYouTubeやアプリに持ち込まれています。まるで電波が届くように。

 さっき書いたように、通常の映画の場合は登場人物がカメラに向かって喋るのはメタ的な行為にあたると書きました。しかし、ガルラジは違います。
 ガルラジのパーソナリティがマイクに向かって喋っているのは、その声がメタ的な次元の観客ではなく、自らやマイクと同じ次元の〈世界〉に住んでいるリスナーに対して届くという前提の元です。この「次元」は普通、ガルラジのパーソナリティたちとそのマイクが存在する虚構世界に住まうと想定される人々に対してです。しかし、リスナー各位は知っての通りガルラジにこの前提は通用しません。ガルラジのラジオの電波は、虚構世界と現実世界の間を飛んでいます

 我々がガルラジを再生する時、そのスピーカーやイヤホンから流れる音の位置は、ガルラジ世界内におけるマイクの位置と繋がっています。これは、映像において撮影側におけるカメラの位置が、視聴者側からはスクリーンの位置に相当するのと類比的です。
 ガルラジのラジオが「異世界で放送されているラジオを受信している気がする」という感じを受けるのはたぶんこれだと思います。

 自分用に忘れないように書いておきますが、上記の理屈は二次元アイドルの楽曲にも応用できると思います。声優がスタジオで歌をレコーディングする一連の状況は、架空のアイドルが架空の世界でレコーディングする一連の状況とシンクロしています。この前提から、我々が手に取ることのできるCDに収録されている楽曲は、あっちの世界で流れている楽曲と完全に一致しています。

 

1.2.4. 余談:ガルラジのロケ回と公開録音

 ガルラジの世界にはマイクがあることがわかりました。そして、そのマイクで収録された音を我々が聴く権利があることもわかっています。

 言ってみればガルラジは、キャラクター自身がカメラ持って撮影するような作品(鳩羽つぐちゃんの動画とか)の、カメラをマイクに差し替えた作品だったわけです。これ本当にこのエントリ書いてるうちに気がつきました。ガルラジの新しさの一端の原因を垣間見た気がします。

 さらに、ガルラジはかっちりした起承転結をなぞる物語じゃなくて、キャラクターにフォーカスした作品です。相当に自由度が高いと思います。

 とりあえずガルラジの他の特性を列挙すると、

①まず、ガルラジは実在する地名を設定しています

②次に、ガルラジのキャラクターはリアルタイムで我々と同じ時間を生きています

③最後に、きわめて厳密な時空間で言えば、レコーディング時の声優さんの動作がガルラジの各キャラとシンクロしていると考えられることがわかりました。

 ここからとりあえず思いついた2つを書いておきます。

 

①ロケ回

 上の理屈から、ラジオブースから外に出てロケをすることができます。街頭の雑音が入っても、それは現実の地名を設定している以上、ガルラジ世界内の現地の音と一致しています(だいぶ表現難しい)。

 ローカル性を重視しているガルラジなのでこれは結構相性いいんじゃないかなって気がします。

 

②公開録音

※追記しましたがこの話はダメでした。

  もうこのコンテンツ触れてるオタクなら全員想像したことがあるでしょうが、公録の可能性が出てきます。

 実際見たいかどうか?というと個人的にはまだイメージがつかないというのが本当のところですが、少なくともここまでの仮定が間違っていなければ、収録された音源には世界観の破壊を起こすような要素は入らないはずです。違和感は感じるかもしれませんが。

 でも万が一本当に公録行われたらどうなるんでしょう。二次元アイドルのライブみたいに本渡楓さんに二兎春花の実在を感じたりするんだろうか

※追記

知見だな~と思ったので引用させて頂きました。ファンが現実のファンだと前提が崩れるの完全に盲点でした…

 

#2 視点の人称とラジオ形式がもたらすもの

2.1. フィクションの視点

2.1.1. ボイスドラマ

 ガルラジは身も蓋もない言い方をすれば、ラジオ形式になっているボイスドラマなわけですが、その比較のためにはラジオ形式じゃないボイスドラマについても書いとかないとだめだろう、と思って聴いてきました。
 はっきり言って、普段僕はボイスドラマとかまったく聴かないので、とりあえず手元にあるTokyo 7th シスターズのCDにおまけで収録されているトラックを適当に2、3個聴くことにしました。それだけで判断していきます。世界は広いのでものすごく凝ったボイスドラマとかも探せばあると思いますが今回は…ごめん。

 さて、ボイスドラマですが、まあ当然ですが映像がありません。声しか聞こえません。あとBGMと効果音も入る。ただ、空間的な情報がカットされているわけではありません。どこかしらの場所の、誰かしらの誰かが、何かしらの何かをしている、というのを、音からイメージすることはできるはずです。
 とりあえず書いておきたいのは、ボイスドラマにおいても、登場人物にはまったく気付かれない視点が前提されている、ということです。いわゆる「窓から覗き見している」感じです。あるいはさっきのカメラの話を応用して言えば、キャラクターからは見えないし気付かれもしない無色透明のマイクで録音されていると言えばいいかもしれない。

 

2.1.2. 三人称視点、一人称視点

 前節で書いたようなカメラの視点や、上に挙げたようなボイスドラマのような視点は、視点の形式としては三人称視点になります。おそらくフィクションの視点としては最も一般的だと思います。ちゃんと調べたことはないですが、フィクションの視点の種類は三人称→一人称→二人称の順に一般的ではなくなっていくんではないか。順を追って確認します。

 まず、一人称視点はたぶん説明しなくてもわかる人多いと思いますが、いわゆる主観視点と呼ばれる形式です。
 映画のジャンルで言えばPOVとか呼ばれるやつです。虚構の世界内にカメラがあり、そのようなカメラに記録された映像がそのままスクリーンに上映されている。
 ゲームの場合はFPSですね。操作するキャラクターの眼がそのまま画面に映っている。

 

2.1.3. 二人称視点とゲームの親和性

 二人称の視点は、小説や映画よりゲームが親和的だと思います。なぜなら、観客に対応するプレイヤーは基本的に1人だし、自分の操作を通してゲーム内に働きかけ(特にキャラクターとのコミュニケーション)ができるからです。わかりやすいところでノベルゲームがあります。また、キャラクターを直接操作せず、指令を送って動いてもらうのも二人称的な関係です。

 検索したところ、ゲームにおける二人称についてまとめている方のブログエントリがあったので引用させて頂きます。

ゲームにおける二人称視点カメラってなんだ走り書き - ぺぺぺな日々

 

2.1.4. 拡張少女系トライナリー

 そして、ガルラジを語る時によく比較に出されるアプリゲームがあります。
 それが、2017年から2018年まで運営されていたスマートフォン向けゲーム、拡張少女系トライナリーです。上のエントリでも言及されているシェルノサージュは、同じプロデューサーによって手掛けられた姉妹作になります。

 このゲームは、画面の向こうの攻略対象ヒロイン(公式名称)と、チャットを通してコミュニケーションを取ることができます。
 さっきも書いたように、このような形式は虚構の世界内に実体のあるインターフェースがあることが重要でした。トライナリーではこれをスマートフォン、そしてアプリによって解決しています。
 画面の向こうの女の子はスマホを持っていて、LINEのようなメッセージアプリをインストールしています。プレイヤーは、そのメッセージアプリにまだフレンドでもないのにいきなりメッセージを送りつける、迷惑メールのような介入の仕方から関係がスタートします。
 プレイヤー側の媒体もこれに対応しています。スマートフォンは現実に手元にありますし、アプリは「拡張少女系トライナリー」というアプリの内部に備わっているチャット機能そのものです。
 上に書いたようにコミュニケーションの手段はチャットです。実際のゲーム内の仕様は選択肢から送る文面を選ぶノベルゲー方式ですが、トライナリーはこれを「アプリの仕様による制限」という理由付けでメタ的な事情をうまくクリアして(こじつけて)います。

 そして、トライナリーの秀逸な点は、プレイヤーは最初Bot扱いされるということです。
 この秀逸さは伝わってほしいんですが、何が面白いかというと、私たちが二人称的な関係にある虚構世界のキャラを、「言ってみれば実際はコミュニケーションが取れているように見せかけているだけのプログラムなんでしょ」と見なしているのと同じように、画面の向こうの女の子からプログラム扱いされているからです。言ってみれば鏡のような関係になっているわけです。

 残念ながらソシャゲの宿命で現在もうプレイすることはできませんが、プレイヤーには鮮烈な印象を残し、今も語られています。ガルラジの「虚構と現実が繋がっている」感じと、最も共鳴していた作品だったと思います。長々書いたけど実は15話くらいまでしかプレイしてないんですけど(小声)。

 

2.2. 声とラジオ

2.2.1. ラジオという形式と心理的な近さ

 さて、ラジオです。とりあえずガルラジはおいといてラジオそのものの性格について考えてみましょう。
 ここまでの流れでおわかりかと思いますが、私はラジオは二人称の視点と近い性格を持っていると思います。思ってました。具体的には「他でもない自分だけに向かって話しかけられているような気がする」と言われるような感じです。
 よく言われる「ラジオは心理的な距離が近く感じる」というのも、このあたりに理由があるような気がしたんですが、実際どうでしょうか。

※2019/02/24 23:09追記
繋がりました。ガルラジは二人称形式です。

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 以下の灰色の部分は初稿です。

 ぶっちゃけ「近い」とつけたように、やっぱり厳密な二人称ではないと思います。だってラジオのリスナーって普通は不特定の多数が想定されていますよね。ラジオ番組の中でも、ラジオニュースなんかは普通にテレビに近いと思います。あと複数パーソナリティの番組って有識者的にはどう感じるんでしょう。私はたぶん両手で数え切れるくらいは聴いたけどなんも思い出せない。

 じゃあ、やっぱり別に形式として二人称的じゃないんじゃないか。うん、たぶんそうですね…長々書いたけど繋げたかったとこが繋がらなかったな…。

 一応ここまで考えたことを列挙してきます。

①映像がない

②ブースには基本パーソナリティのみ

③スタッフのガヤが入ったり話しかける時もあるけど(手取川がブースの外にいる吉田さんに話しかけるのとか)、基本はマイクの向こうにいるリスナーに対しているという前提がある

④複数パーソナリティだと2人だけで喋ってるのを輪の外から眺めてるような感覚になる時がある気がする

⑤マイクを持っている人間はいない、カメラに対するカメラマンはいない

⑥公開録音だとその場にいる聴衆に話しかけてて、リスナーが蚊帳の外のように感じる時が多い気がする

⑦お便りやメールで双方向性がある

⑧とにかくなんかよくわからんけど話を聞いてるととにかく近くに感じる

 書き連ねたけどどれも決定打にはならない気がします。
 一応何か書くとすれば⑥の公録の例は3人称視点になると思います。フォロワーも公録回が楽しいの現地行った奴だけだろって言ってたからそう思ってる。

 また、文学の分野で潜在的な二人称的という考え方があり、これでいいんじゃないかな?とも思ったけど詰まったので諦めました。これは最後のつぶやきについて書く時に使います。

 

2.2.2. 録音された音と撮影された物の純粋性

※改めて読み返したらだいぶ混乱してたので若干書き加えました。

 ラジオの心理的な近さを二人称でうまく説明できないか色々考えてたんですが、ぜんぜんダメっぽいので諦めました。今までの話の意味は…トライナリーの話がしたかったから…。

 そういうわけで、再び映像と音の対比で考えます。
 #1 で声を厳密に即自的に保存するのは無理だとわかりました。しかし、現実的には雑音が入らないきちんとした環境で録音すれば、ほぼその人の声そのものだと感じると思います。そして、音声には物体における「面」がありません。音は常に知覚された内容が全体です。よって、パーソナリティが話している場所とスピーカーが直結しているような感じが生まれるのではないか。
 仮に収録現場に立ち会えて生で声聞けたとして、その声を聞いてる位置で「録音」した音は、距離感を感じる音だったり雑音が入ったりしていて、その場で感じた音声とは違うものになると思います。しかし、生で「耳で」聞いている場合、認知的にも人間の耳は雑音をカットしてくれるので(参照)、クリアな録音の音源の方がその場で聞いている場合の声に近いはずです。常識的に考えてそりゃそうですが。

 よって、音声は目の前で知覚する場合の音をほぼ純粋に保存できるという仮定を立てられます。この「ほぼ純粋に」はどのような意味かは、例によって映像と対比するとわかります。

 映像の場合、必ず対象からある程度距離を取る必要があります。そして、その程度は音の場合より非常に小さい物を接写する場合もありますが、ある程度大きい物体は一定の距離を取らないと全体が映りません。また、「ある物をどう撮るのが正解か」は、撮影者の意思や解釈、美学が入ってきます。例えば、ある立体的な美術作品をどの角度から撮影するのが最も正解かは、そう簡単な問題ではありません。
 さらに、最初に書いた通り、虚構の対象はカメラの視点に相当する視点を伴う必要がありました。なぜなら、この世界に実在しないので我々の目の前に現出する可能性がないからです。

 しかし、音声の場合は視点に該当する実際は距離感が保存されますが、必ず対象との「距離を取る」必要がある映像に比べれば、その差は程度としてかなり少ないものになります。つまり、録音された音は、何かを撮影した映像に比べて、生で見た時に知覚できるものと近い、つまり、純粋性が高いと言えるでしょう。

 よって、録音された音声は、虚構のキャラクターが目の前にいる時に知覚的に聞こえる声と、ほぼ同じものを聞くことができるという結論が導けます。
 相当長くなりましたが、私は「ラジオの心理的な近さ」はここに原因の1つがあると解釈したいと思います。

 あと長くなるので端折りますが、動画付きラジオはどうすればいいのかというのもあります。ただわたし動画付きラジオそんな真剣に見たことないんですよね。前に生放送が動画付きでアーカイブが音声のみの「佐倉としたい大西」聴いてましたが、動画と音声で感じ方に違いがあったかどうかとかまったく思い出せない。ていうかそんなこと考えながら聴いてる奴いないだろ。というわけでまた今度考えます。

 

2.2.3. 音の編集と時間、一発録り

 視点の話はここまでにしておいて、ラジオの編集面について書いておきたいことが2つあるので、それだけ書いちゃいます。

 まず編集についてです。ここで想定しているのは映像のおけるショットの繋ぎと、ラジオにおける音のカットと繋ぎです。

 ここで考えたいのはラジオの編集は、映像より切れ目なく続いてるかのように見せかけやすいんではないかという点です。もっと言えば番組の最初から最後まで一発録りかのように錯覚させやすいのではないか。これはもし正しければガルラジに有利です。順に確認します。

 テレビ番組でも映画でも、ワンカットのみで構成されている映像作品というのはあまりありません。そして、あるカットから別のカットに切り替わった時、人物の動作が切られていたり風景が変わっていた場合、私たちは「カットとカットが変わる間にカメラが別の場所に移動したり、時間が飛んだ」ということがわかります。

 逆に、映画では撮影現場では分割されていた時間を、連続した時間のように見せかけることもできます。例えば会話のシーンで、1人が喋り終わってすぐ画面がもう1人の顔に切り替わり、会話が続くような場合です。
 また、カメラを何台も同時に使ってスタジオで撮影するようなテレビ番組なら、カットが変わってもまったく時間が飛んでいないという場合もあります。

 もちろんプロが編集してる時はまず気にならないでしょうが、完全なワンカット以外の場合は、カットの変わり目には、常に時間が切り替わった「可能性」が含まれています。そして、カットの繋ぎ方でうまく映像の内容を繋げたとしても、カットの変わり目それ自体を隠すことはできません

 ライブ配信の場合はわかりやすいです。複数台のカメラを使っている場合は別ですが、1台のみの場合はもし映像がぷつっと切れて飛んだらそれは配信が切れたのを意味します。 

 一方ラジオはどうでしょうか。録音した音源をソフトで切ったり繋いだりする。喋ってる途中でぶった切ったらさすがにわかるでしょう。しかし、たとえばパーソナリティがある話題の話を喋り終わった時点を編集の頭にして、次の話題を喋っている時間を丸ごと削除し、また別の話題が始まる直前に再開した場合、まず気付かれないんではないでしょうか。
 「…はい、それでは~」みたいな編集点を作るための決まり文句があったとしても、映像におけるカットの変わり目のような、メディア的な次元で生じるはっきりとした差ではないと思います。もちろん実際は聴いてて「ん?」ってなる不自然な飛び方をすることも多いですが。

 つまり、ラジオの編集は時間が切れ目なく続いてるかのように見せかけることができる。なぜならラジオなら音源を部分的に切っても、映像のようなカットの変わり目それ自体を隠すことができるからです。
 おそらく、ラジオで映像のカットの変わり目に相当するのは、ジングルやCMが入るような時だと思います。実際聴いててもこの間休憩してるんだろうなってなりますよね。

 思ったより長くなりましたが、編集の切れ目を隠しやすい、ということはワンカット、ラジオで言えば一発録りに見せかけやすい、ということに繋がります。
 一発録りに見せやすいということはもうおわかりでしょうが、ライブ配信に見せやすいということに繋がります。もうここまで書けばもういいでしょ。ガルラジのラジオは生番組です。

 

2.2.4. ナレーションと劇伴

 ラジオに収録されている音は声だけではありません。ガルラジの場合でもBGM、ジングル、キャラクターが動いて出る物音、そしてNEXCO中日本の藤田さんあたりが列挙できます。

 この中で指摘しておきたいのはBGMとジングルです。藤田さんは後の方で触れます。

 映画やアニメだとわかりやすいですが、ナレーションと劇伴はそのフィクションの世界内で鳴っている音ではありません。後から付け加えられたものです。 
 先ほど、ガルラジのラジオは、ガルラジの虚構の世界内で録音されていると書きました。これは矛盾ではないか。メタ的な要素が加わっているのではないか。

 しかし、ガルラジのBGMは明確な違いがあります。それは、ガルラジのキャラクターは自分のラジオ番組自体を聴くことができるという点です。

 通常の劇伴は、そのBGMを作品のキャラクターが聴くことはありません。なぜなら虚構内で鳴っている音ではないからです。盛り上がるシーンでアツいBGMが鳴っても画面の中のキャラクターにその音が聞こえるわけではありません。

 言ってみれば、ガルラジのBGMはガルラジのフィクション世界の中で編集されてつけられたBGMです。 
 富士川の第5回で、番組内で人間模様としてはドラマティックな出来事が起きたにも関わらず、能天気なBGMが流れ続けたのは記憶にも新しいところです。
 ただ、逆にドラマチックな出来事が起きている時に熱いBGMがながれても、ブースの外にいる音響さんがアドリブでかけたという説明はできると思います。

 

2.2.5. フィクションのキャラクターのラジオと超越性の排除

 自分で書いといてなんですが、ここまで書いてようやく見出しがこれかよって感じです。ガルラジの代名詞じゃねえか。ていうかここまでで1万字超えてるってマジか?

  ガルラジはフィクションのキャラクターによるラジオ、もしくはラジオ形式のボイスドラマです(本当に今更これ書くのか?)。

 それではここに列挙したラジオ形式が及ぼす効果をあてはめると、

視点としては二人称に近い。少なくとも三人称視点よりは遠い。
※2019/02/24 23:09追記
二人称です。

②映像がカットされていて音声のみなので、目の前にいるように感じる。

③編集の繋ぎ目を隠しやすいので、ワンカットの生放送に見せやすい。

 ここまでを一端まとめて、私はガルラジの特徴の中心にあるのは超越性の排除だと仮定してみたい気がします。ここまで長々と書いてきましたが、どんなポイントでも、通俗的な意味における「メタ性」を感じさせる要素がほぼ排除されています。
 なんでこんなことになってるのか本当によくわからないんですが、たぶんこれはラジオという形式を守ると自動的にこういうことになるんだと思います。

 また、メタ性が「完全に」排除されているかと言うとわかりません。まず小説が完全に三人称です。あとおたより問題というのがあります。

ガルラジにメール送るの難しすぎ問題とかの話 - 浅瀬文書

 ガルラジのおたよりはトライナリーのチャットに対応します。たぶんこれはコミュニケーションとか双方向性の観点で考えるといいんだと思います。ガルラジはゲームではないので。でももう限界なので今回は無理です。

 

#3 ラジオ女子の声

3.1. 噛む、アドリブ、アクシデント

3.1.1. アクシデント、編集、時間、素人女子のラジオ

 ガルラジを聴いて一瞬でわかる特徴の1つにキャラクターが噛むというのがあります。しかし、結局これ何の意味があるのよ、と聴かれるとまだよくわかっていませんでした。

 そこで、補助線にしたいのが、さっき書いた「ラジオはワンカットの生放送に見せかけやすい」という点です。これは生放送の形態を取っているガルラジには非常に有利です。

 しかし、いきなり前言を撤回するようですが、現実の生放送ではトラブル1つもないということはあまりありません。いわゆる、「あまりにうまくいきすぎてると逆に嘘くさくなる」という問題です。この「嘘くさい」は「作り物くさい」に繋がります。しかも、ガルラジは素人女子のラジオです。トラブル1つもないということはないでしょう。

 先ほどは音の編集は映像と違いカットの変わり目が隠しやすいということを確認しました。これは逆に、「編集していないのに編集している」ことが疑われる可能性にも繋がります。
 しかし、噛んだのを残した場合は「編集していない」ことが明示的になります。生放送の生放送っぽさのゆえんです。つまり噛んだのを残すのは時間の流れ方に関わります
 これは当然、声優さんのアドリブや、偶然起こったアクシデントも同様です。

 もちろん、現実的には声優さんが喋った音声を収録してdwangoの制作さんが編集しているでしょう。しかし、それはメタ的な次元の話です。そして音は編集が隠しやすい。よって、ガルラジの30分の放送はガルラジのフィクション世界内の収録の30分と同一です

 

3.1.2. アイドルマスターシンデレラガールズのラジオ

 はっきり言ってこの項はこれのために書いていたと言っても過言ではない。
 まず当たり前ですが、「二次元キャラのラジオ」ってアイデアだけなら多分過去にも誰か思いついてるはずです。そして実際ありました。末茶藻中さんの記事で紹介されていたアイドルマスターシンデレラガールズのゲーム内ラジオです。

『ガールズ ラジオ デイズ(ガルラジ)』という異世界ラジオめいた奇妙なキャラクターラジオコンテンツを君は聞いたか - 日陰の小道

 なかったことにしたかったけど、残念ながら私はデレマスやってました。たしかこのラジオも何回か聴きました。
 ここからガルラジを差別化するにはどうすればいいでしょうか。ラジオ形式なので「虚構世界の収録スタジオに実在のマイクがある」は普通に当てはまります。そして最悪なのはアイマスは二人称視点ゲームのトップコンテンツです

 というわけで思いついたのが上の理屈です。つまり、アイマスのラジオはうまくいきすぎていて、「編集を入れていない」ことが明示的になっていないからです。つまり時間の流れがスムーズすぎて逆に時間が操作されている色が濃くなっている。

 というか普通のアニメっぽい喋りと生っぽい喋りでも良かったんですが、それは次にします。 

 

3.2. ガルラジの演技と身体性

3.2.1. 「素っぽい」「生っぽい」声が意味するもの、しないもの

 ガルラジの独特の「生っぽい」とか言われる喋り方です。はっきり言って大したことは思いつきませんでした。

 率直に言って、この喋り方が結局「何なのか」「何を意味するのか」はなんもわかりません。「…である」と肯定形で答えるための回答は見つからなかった。しかし、逆に否定的に普通のアニメっぽい声ではない」とは言えるのではないか。もし特殊でなければ気にされることさえないはずですから。

 私がここで補助線に引き出したいのは、漫画をアニメ化した時に「声がイメージと違った」と言われるような場合です。ガルラジはこれの逆バージョンと言えます。絵がなくて声だけ聞こえてるわけですから。
 実際、漫画を読む時に 台詞ごとに頭の中にはっきりした声が再生されているわけではないと思うんですが(いたらすいません)、こういうことが言われるのは、無意識的に想像力で補っているからだと思います。それはテープで再生されるように頭の中で鳴っていなくても、「実際には」鳴っていると想定されています。

 そして、ガルラジの生っぽい喋りが普通のアニメっぽくないとすれば、ガルラジの喋り方は、潜在的に背景に想定されている映像イメージを、普通のアニメ的なコンテンツの典型からずらす効果がある、と考えてもいいんじゃないか。
 最初に書いたように、ガルラジのこの喋り方が「何を」イメージさせるのかはわかりません。実際この喋り方のまま普通にアニメ化してもそんなに違和感なく楽しい気もします。

 

3.2.2. 声の身体性、カサヴェテスのクローズアップ

  ここからはかなり根拠のない放言になるんですが、この喋り方で映像イメージに強化されるのは身体性なんじゃないかと思います。なんというか「キャラクター」じゃなくて「人」っぽいというか。本当に感覚的な感じですが。

 いろいろある音の種類の中でも、声は必ず人が出す声です。人が発してない声は定義上声とは言いません。我々がある声を聴いている時は、意識的であれ無意識的であれ必ずその声を発している誰かの存在がセットになっています初音ミクさんとかもいるけど話がややこしくなるので後回しにさせてください。

 ある声を発生している人は身体を持っています。当たり前ですが口がないと声は出ません。口だけが空中にふわふわ浮いているはずがないので人間の全身があります。人間は虚空の中で浮かんで生きているわけではないので、その全身を取り巻く世界があります。そして、その世界の中でその人が生きて生活している。また、ガルラジは実在の地名を設定しています。そしてその土地で生活していて、人生がある。

 それは例えば、アメリカンニューシネマの映画監督ジョン・カサヴェテスが、人物の顔をクローズアップを撮る時に近いのではないか。
 その画面いっぱいに映し出されている顔は、表情によって登場人物の感情や心理を読み取るための記号というより、身体の一部としての顔そのものから、それを演じている俳優がそれまで生きてきた人生や来歴を感じさせるように見える。顔つきや肌に刻まれた皺がそれまでの年月や生き方を感じさせるように。

 そして、ガルラジの喋り方が「素っぽい」というのも、これと似たような事態なのではないか。つまり、ガルラジのキャラクターには、それを演じているの声優の身体性や、それまで生きてきた来歴が反映されている。
 言ってみればカサヴェテスが映画内の人物にそれを演じている俳優の人生を溶け込ませるように、ガルラジのキャラクターは声優の身体性や人生が溶け込んでいる。例えば本渡楓さんがよく噛むのが、二兎春花がよく噛むようにも見えるように。
 ガルラジの喋り方には、潜在的に背後にこのような文脈が込められていて、我々がラジオを聴取する時なんとなくこのようなことを読み取っているんじゃないか。根拠はまったくありません。

 あと最後に、私は毎回の配信についてくるひづき夜宵さんのめちゃくちゃかわいいデフォルメイラストは非常に好きであるということだけは言っておく。

 

3.2.3. NEXCO中日本の藤田さん

 何かの抽象的な事態や概念を考える時に大事なのは、対立概念や近接の事態を想定して比較することです。
 そして、われわれはこういう時に対照にうってつけの例がすぐ近くにある。箱番組のお姉さんが
 藤田さんの話をどこに入れるかは迷いましたがここでいいでしょう。だって藤田さん散々変なとこ指摘されるガルラジの中でさらに浮いてるし

 聞いてればわかりますが、ガルラジのキャラはみんなプロの声優さんがやっているのでものすごく発声が安定していて聴きやすいです。たまに噛んだりアドリブが入ったりしても、素人がやっているような配信とは天と地ほどの差があります。
 一方藤田さんはどうでしょうか。iPhoneで録ってるような音質素人丸出しの喋り方しかしプレッシャーを一切感じさせないふざけ方、と、どれを取っても浮いています。

 だいたいガルラジの喋り方を指して言われる「生っぽい」が、仮に「現実に近い」だとしたら藤田さんの方がよっぽど生っぽいはずです。いうかリアルそのものです。万が一藤田さんが架空の存在だったらマジでビビります

 さてそれではここから何がわかるか?はっきり言ってなんもわからんです。でもガルラジについて書く時に藤田さんに触れないのは嘘だろうと思って書きました。

※追記
藤田さんは我々の世界に属しながら楽々とガルラジのキャラクターとやすやすと会話ができているという特異な位置にいる存在ですが、これに触れるとありえないほど議論が混乱するのであえて触れませんでした。藤田さんはガルラジのパンドラの箱です。

 

#4 媒体もしくは全体としての時間

4.1.僕たちの時間と彼女たちの時間

4.1.1. フィクションの「世界」

 今更書くのもどうかと思うんですが、今まで「フィクションの世界」とか「虚構の世界」とかいうのをめちゃくちゃ無定義に使ってきました。雰囲気でわかってもらえると思うんですがだいたい通俗的パラレルワールドみたいなイメージです。

 ほんとはこのあたりはちゃんと定義した方がよくて、現代文学や映画はこの世界観が通用しない作品もいくつもあるんですが、死ぬほど長くなるので雰囲気でパラレルワールドみたいな感じのまま進めます。たぶんガルラジは困りません。

 

4.1.2. シンクロする時間

 最初の方で、ガルラジは一人称作品と同様の構造を持っていると書きました。というかなんならラジオ形式だって色々あります。
 じゃあガルラジは何が違うのか、というところでよく言われるのが、リアルタイム性です。普通のフィクションの作品は、読者や視聴者に「いつ見られるか」までは想定していません。呪いのビデオテープはいつ再生してもいいです。
 そして、物語の中の時間はほとんどの場合、我々の時間と隔たっています。それが過去の話であれ未来の話であれ、その物語をある時点で見るためには、その時点までにその物語が制作されている必要があります。

 しかし、ガルラジの時間は、我々の世界の時間と完全に一致しています。今のところ、我々とガルラジのキャラクターは2018年12月から2019年3月までの同じ時間を生きています。「物語は終わっても人生は続く」というように、彼女たちは生誕から今に至るまでのプロセスを現在進行系で進んでいます。

 おそらく、これもまたガルラジに触れた人間に変な感じを与える一因になっています。
 #2の方でガルラジは「目の前にいる感じ」を再現しているという話をしましたが、「目の前にいる」という事態は、空間的に同じ位置であると同時に、時間的にも同じである必要があります。逆に言えば、ガルラジの場合、空間的には隔たっていても、時間的な隔たりをゼロにすることができます。これは特に生放送リアタイの場合に顕著です。だからガルラジ触れるなら今なんだよな。

 

4.1.3. フィクションにおける時間の流れ方

※ちょっと加筆しました

 じゃあ他の表現形式ではどれだけリアルタイム性を実現できるでしょうか。

 まず、文学は無理です。記号の表現なので直観的な時間の流れ方を再現することは不可能です。意識の流れの手法はこれを再現する試みの性格もあります。

 次に、映像は今まで散々書いてきましたが、ワンカットが条件になります。

 最後に、音声のみの場合はカットの変わり目を隠しやすい性格がありました。それは、生放送に見せやすいという性格に繋がります。
 そういうわけで、ガルラジの各番組の30分間の放送時間は、ガルラジのサービスエリアで各チームがマイクに向かって喋っている30分間と完全に一致しています
 上で書いたように、放送時間が作中で流れている時間が一致しない場合は、映像で言うカットとカットの切れ目で時間を飛ばして操作しているからです。極端な場合は30分の放送時間で数年の月日が流れるアニメもあるでしょう。

 というわけで、ラジオはきわめてリアルタイム性と相性がいい表現形式です。 

 

4.2. ガルラジアプリのつぶやき

4.2.1. Twitterを模倣したつぶやきの効果、話し言葉

 2019年にもなってツイッターの解説いる?って思ったんですが、ガルラジでつぶやき避けたらダメな気もするのでなんか書きます。

 なんか書くとすれば、Twitterのようなつぶやきはきわめて話し言葉に近い性格を持っているということです。これは文体もそうですが、話し言葉の特徴は、「話すと同時に聞き取られる」という部分です。これは他の書き言葉と大きな違いです。つぶやきの言葉は、本や看板のようにそこにずっと根を下ろすものではありません。つぶやいた「現在」と共時的な人に読まれることが想定されています。そして、タイムラインの下へ流れていく。

 もうわざわざ書く必要ないと思いますが、これもガルラジのリアルタイム性と親和的です。

 

4.2.2. 潜在的な二人称

 ツイッターの文体について「潜在的な二人称」いう概念があるのでこれを使います。ほんとはこの節ラジオの方で書いてたんですが思ったより使えなかったのでこっちに持ってきました。

 出典が思い出せなくて申し訳ないんですが、この「潜在的二人称的」という用語を見かけたのは、何かの本の入っていた太宰治を論じた何かの文章で引用されていたのです。今検索したら奥野健男さんの太宰論が出典みたいです。

 太宰の熱心な読者なら直感的にわかってもらえると思いますが(直感でわかってしまったので出典を忘れたんです)、太宰の文体は日本文学において非常に特異です。小説は一人称と三人称がすぐ判別できる表現形式ですが、太宰の文体は一人称とも三人称とも言えないような、なんというかその小説を読んでいる読者に語りかけるようなもので、現代のブログやツイッターに近いとよく言われます。ちなみに私は言うほど熱心な読者じゃないです(だから出典を忘れたんです)。
 ちゃんと調べればちゃんとした研究があると思いますが、めんどくさいのでしません。あと太宰は完全な二人称形式の作品も書いています。駈込み訴えが有名ですね。あと他に二人称の小説でよく言及されるのは、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』とかですね。

 そして、潜在的二人称の「語りかけるような」語り口は、キャラクターの心理的な近さに寄与しています。

 

4.3. 単一の全体の時間

4.3.1. 足元を流れる大きな川

 さっきからパラレルワールドのイメージに訴えていますが、世界が2つあって、それぞれで流れている時間が同じとはどういうことでしょうか。
 このイメージだと時間の流れが2本あるようなイメージになりますが、そもそも時間が2本あるとはなんでしょうか。

 我々が時間の流れを認識するには、なんらかの物が必要です。一番わかりやすいところでは時計があり、太陽の昇り沈みなどの自然現象もあります。しかし、完全な暗闇で何も見えず動くものもない映像をずーっと見てても、それが静止画なのか動画なのかわからないでしょう。
 また、仮にガルラジのスタジオにカメラが設置されたとします。我々の手元の時計とモニターで見えるガルラジ世界内の時計が完璧に一致しているとして、なぜ時間が2本だと判別できるでしょうか。判別できるわけないですね。
 というかこの仮定が成り立つこと自体が時間の流れが同じことである根拠です。もしガルラジ世界内の時計と我々の世界内の時計が違っていた場合、それは時計が狂っていると判断されるだけです。

 つまり、ガルラジのキャラクターと我々は同一の時間の中にいます。時間は1つしかありません。ガルラジと我々を繋いでいる基底にあるのは時間です。およそ存在するもので時間の中にないものはありません。
 イメージに訴えれば、我々の世界とガルラジの世界は1つの同じ川の流れの中にある2つの小島のようなものです。そしてその間を電波が飛んでいる。

 

4.3.2. 親密さ

 当然ですが、ガルラジのキャラクターは我々が存在するようには存在しません。現地のサービスエリアに行っても出会うことはありません。
 しかし、そんなことは大した問題ではない。人間は何十年も一緒にいた人のことを何もわかっていないこともあるし、逆に遠く離れていても世界中の誰より内面を深く理解できたりする生き物である。3次元の空間で計れるような距離は、本質的な隔たりや近さにはなんも意味を持ちません。
 それを考えたらフィクションと現実の差なんて大した問題じゃないんじゃないな、という気がします。

実存する現存在の存在は時間性にもとづいている。もしもわれわれが《主観》を存在論的にこのような現存在として把握するならば、そのときには、世界は《主観的》である、と言わなければならない。けれどもそのときには、この《主観的な》世界は、時間的=超越的な世界として、およそいかなる《客観》よりもなお《客観的》に存在するのである。

マルティン・ハイデガー存在と時間』 細谷貞雄訳 第4章第70節より

 

※追記
続編と完璧なオチがつきました

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