ゴールデンレトリバー撫でたい

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ガルラジ、質感旅行をもう一度考える

1. 聖地巡礼と質感旅行

 放置しようと思ってたけど質感旅行について1つ思いついたので手早く書いときます。

 

 前回の記事はこちら。

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 特に書くことないからとりあえず白糸と手取川ダイマで埋めましたが、最近ずっと怪文書を書き続けた頭でこういう思考経路がありました。

  私の言っている意味がわかるか?ガルラジについてはいつもそうだがはっきり言って俺は自分でも何を言っているのかよくわからん。

 

1.1. 前置き

 だいたい1ヶ月くらい前に上に貼った記事のような流れがあり、これ以降、ガルラジの一部界隈では現地に赴くのを質感旅行と呼ばれる慣習が始まりました。この文章をこの界隈以外が読むのかは謎ですが…

1.2. 聖地巡礼と質感旅行

 今回の論点は1点のみです。っていうかそもそも結局質感ってなんなんだよって感じなので正確な定義とかできるわけありません。

 で、今回書きたいのが何かと言うと、聖地巡礼アニメは作中に出てくる画面と同じ風景を写真に収めるのが最も理想形とされるという仮定の上で、質感旅行は違う、という話です。

 

1.3. 通常の聖地巡礼アニメにおける視点、撮影、鑑賞者

 通常のアニメの場合、なんらかの映像にはある1つの視点が伴う必要がありました(これの1.1)。ある映像にはそれを撮影した誰かの解釈が含まれます(これの2.2.2)。
 というかアニメならこれは、演出や監督の仕事に該当するので、下手したら解釈以前に解釈の方が優位です。つまり、聖地アニメの場合、それが映像作品である限り、「どういう建物や風景をどう撮るか」という、スタッフの意思が必ず入ってくる。あらゆる撮影は美的行為である。
 私の知る限り、これから最も遠い例は、『夏色キセキ』でゴジラがわざわざ観光名所通ってくるみたいに、下田の風景をできるだけ多く写すための尺を稼ぐためとしか思えないくらい街中を無駄に走りまくってたシーンです。

 

1.4. ガルラジの聴取体験は作品世界を外から眺めるようなものではない

 ガルラジの基本形式は音媒体のラジオと文字媒体のSNSなので、この時点で映像表現に必然的に入りこむ撮影者の意思をカットできます。また、音を録音した音源は、物を撮影した映像に比べて、撮影者の「解釈」が入りにくいまま保存できる(これの2.2.2)のも確認しました。

 通常の場合、その作品世界内の主観視点と画面の外にいる視聴者はどうやっても一致しないのはシチュエーションボイスの例(これの1.4)で確認しました。
 しかし、前々回の怪文書前回の怪文書で、ガルラジは三人称視点的ではない、スクリーンを通してフィクションの世界を外から眺めるような作品ではないことがわかりました。

 そして、我々はガルラジ世界内で放送されているラジオを、「直接」聴けている(これの #1)ことが判明しました。これを別角度から照らしたのが、我々はガルラジにおいて「リスナー」の位置を占めることができる(これの2.2)という事態でした。言ってみれば、我々はガルラジのフィクション世界の「中で」ラジオを聴取できるわけです。

 それでは、この「フィクションの世界へのリスナーの組み込み」が、「フィクション世界が実在する地名を設定してあって現実の日本と同じ」だった場合、どうなるでしょうか。

 そう…感じられるに違いない…"質感"が…

 

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今回はここまで!